僕のブログ

日記を書くところ

オトモダチ闘争

 

 大学をやめてからというものも実生活での人間関係が枯渇してしまいました。もはや、僕は社会的に孤立している状態とあまり変わらないのではないかという気がしてしまいます。

 

 人間は社会的な動物として他者の共生しながら生きていくことが自然な気がします。だけれども、僕はそんな共生して生きていくための空間を準備することに失敗しました。そもそも、こういうものは準備するものなのか、それとも、予めに用意されているものなのかは判然としません。前者であるならば、不断の努力による競争もしくは闘争によって勝ち得るものなのかもしれません。でも、後者ならば迎え入れてくれる空間や組織があるはずなのです。人間は社会で共生の比喩的な表現としての協力の名のもとに生活することが自然なのだったら、社会にはあらゆる人間を迎え入れてくれる組織や集団があることも自然なことだと思います。しかし、社会の実態はそうでもなさそうです。就職活動は紛れもなくある企業への就職口という限られた牌の奪い合いです。

 

 まあそんなにたいそうな話しでなくても、僕にとっては日頃の交友関係も似たようなものな気がしてなりません。オトモダチどうしが形成する集団をある集合Aと考えればその性質は紛れもなく可算集合として定義さるんじゃないのかなぁと思います。だって、オトモダチメンバー集団の人数を両手で数え上げられないようなことなんてないですよね。大抵、数人のメンバーからなってますから。

 話が長くなってしまいましたけれども、ここで僕の言いたいことはあるオトモダチ集団に属することのできるメンバーには限りがあるということです。言い換えれば、あるひとは仲間として迎え入れられて、そうでない人はハブられるんです。でもまぁ20年も生きていればごく当たり前のように繰り広げられた光景になりますね。小学生のころからそういった現象はあったんじゃないかなぁと、僕は思います。

 

 ところでなんでこんなに長ったらしい話しをしたのかといえば、僕は大学へ入学してからその可算集合なオトモダチメンバーの元に数え上げられなかっただけの話しだからです。人間は共生社会で生きることが自然なのだから気楽にしていても、オトモダチはいーっぱいできるんじゃないのなぁと思っていました。けれども、入学当時から周りはあちらこちらを詮索して回っているような空気が漂っていました。おそらくあの空気が立ち込めるその原因は、自分こそはぼっちになんてならないぞ!っという闘争心から湧き出たものなんじゃないかと、今考えてみるとそう思うところがあります。それでいざ、形成されたオトモダチメンバーは闘争によって成立したものなので、なんだか保守的でした。そうですよね、だって、各個人が血眼になってかき集めた普段の努力のせいかなんですもの。どこぞの馬の骨かも知らぬ輩を寄せ付けるはずもありません。

 

 僕はなんだか生活するための一つの手段でしかないオトモダチ関係にまで闘争を持ち込むようなそういう慣習には疲れました。なんだかしんどいなーっと、そんなことを思っていたら誰とも交友関係を取ることがなくなってしまったというお話でした。