僕のブログ

日記を書くところ

日々弱々しくなる僕のキモチ

 

 なんとなくブログを書き始めてから月日はそれなりになっているようです。でも、更新頻度はあまり高くありません。日記と称してこのブログを暇つぶし程度に、いや、日頃に思い抱く不満な感情を吐露することで多少なりともはキモチを楽にしたいというそんな目的からこのブログをはじめました。

 

 だけれども、実際のところ僕はほぼ引き篭もりみたいな状態の生活を送っています。誰とも接することもなく、誰とも話すこともない生活。それでも一応は生きています。じゃあ、生きているなら外へ出て猛々しく闘争心をむき出しに労働に励みなさいと、そういった声が聞こえてきそうなものです。おそらく、この記事の先の文を読んだ人もそう考えたんじゃないのかなぁとは思います。

 

 ではなぜ、僕はそう猛々しく生きようとしないのか。単にこの日本の社会というものが恐ろしいからです。なにが恐ろしいのか。それは、労働者としてこの日本の社会に点々と位置する現実に存在する会社では日常的に行われている労働力搾取というものが僕には恐ろしいのです。こんなことをいうと、会社で働かれている方々からは生きるためにはそんなことは仕方のないことでアタリマエのことだ!だなんて叱責を喰らいそうですが。しかしながら、かく言う会社で労働者として働いておられる方々がこの労働力搾取を直接的にか、もしくは、間接的に肯定してしまっているという事実には変わりないんじゃないでしょうか。働くことは当然です。労働は人間の精神の糧です。我々が生きていくためには大切な行為です。そして、そこから生まれる生産物は我々の生活に必要なものです。でも、その本来は讃えられるべき労働がいつの間にやら労働力へとすり替えられ、求められるものは生産力となってしまいました。働いていることだけでは社会や会社は認めてくれません。生産性がない社員へ対して経営者は賃金を支払いたくはありませんので、当然に解雇されてしまいます。使い捨てですね。しかし、そのような現実を前にして、苦しんで働いている同期の社員の方へ手を差し伸べたりされることはあまりないとのことです。働けないのは個人の責任だからでしょう。現役で労働者として会社に雇用されている方々は労働力搾取に喘ぎながらも、それを助長させんとばかりに働き続けます。賃金の向上というニンジンを目の前にぶら下げられた労働者は皆、闘争心をむき出しに我こそはこの資本主義社会の有閑階級へとふさわしい人間にならんとばかりに、同期の方々をライバル視、、、いや、敵意することで振り落としていくそんな人たち がこの労働力搾取によって成り立つ資本主義社会を是正することもなく肯定して生きているわけですね。

 

 ところで、こんなことばかりを考えているとキモチも弱ってきます。労働力を経営者に巻き上げられながらも命と尊厳をすり減らしてあくせくと働き続けることが恒常化した今の日本の社会に対してなんの夢と希望を抱けばいいのか。先に述べたように働かなければ生きていくことが出来ないことは事実です。でも、その労働の権利が大きく制約されてしまっているのが現実なんじゃないでしょうか。だって、働いても生活苦にあえぐ人たちは派遣制度の緩和のおかげさまで年々に増加していきているとのことです。まあ政府は正規雇用者の数を増やせと各企業へ通達しているみたいですので、企業としてはそれに従い一応は正規雇用の社員の数を増やそうとしているみたいです。ですが、その実態の幾つか、または、多くは名ばかり正社員と称されるように、契約上は正社員でありながらも代償として仕事へ対する責任を上乗せされているみたいです。そんでもって、賃金の向上はこれといってないそうな。人の労働というものを神聖視するどころか、むしろ明らかに軽んじてますよね。労働は義務だなんていうモラルを盾に。

 

 人間どうしを敵視しあって闘争することが当たり前のように刷り込まれた人たちが溢れる社会に対してどう抗って生きていけばいいのか。生活の糧となる労働を市場へと封じ込めたこの日本と社会の構成員たるステロタイプな国民たちは日々、僕を殺しにかかって生きてるようなものですね。理想も絶え、夢も絶え、憧憬も絶え、なにを志して生きていけばいいのか。この喜びを分かち合えない現実の社会でなにを糧に生きていけばいいのか。僕はキモチは日々弱まる一方です。